看護学と女性のみらい vol.2
“「「寄り添う」について考える」----リモートとダイレクト----”
突然ですが、私の好きな詩人の一人である丸山 薫(1899〜1974)の作品の中に、「白い自由画」という詩があります。これは、山間にある小学校の教員が、とある冬の日に子どもたちに「春」という題で自由画を描かせる一コマを描いた作品です。雪国にあるその学校の教室の窓の外には、墨絵のような雪景色が広がっていて、子どもたちは「春」をどう描いたらよいのかわからず途方にくれます。そこで先生は、せめて空に色をさしてあげようとして、「誤って」黄色い絵の具を濡れている画用紙にぽとりと落としてしまい、「失敗した」と後悔します。すると子どもたちは、「ああ まんさくの花が咲いた」とよろこぶ、という場面です。
これは、対面での関わりであるからこそ実現したものでしょう。もしも、丸山が生きた時代も情報やコミュニケーション技術が現在と同程度に発達していたとして、遠隔授業ではこのような、偶然性は生じ得ません。もちろん、リモートでの授業や会議にも偶然性や不確実性は内包されてはいます。しかし、描きかけの濡れた画用紙に絵の具が落ちる出来事に象徴されるような、直截的で、そしてその場で投げかけられた言動が相手にみるみる吸収され、瞬く間に意味が変容していくようなダイナミズムが生じることは期待できないのではないでしょうか。
もう一つ紹介させてください。サン=テグジュペリの『人間の土地』です。彼は、20世紀初頭のまだ飛行機が登場したての時代に郵便機操縦の任務に就く中で、事故によりサハラ砂漠に不時着します。そして、砂漠での3日間を「愛する家」のことを思うことで、寒気と渇きと疲労に打ち勝って生還します。砂漠の真ん中のサン=テグジュペリを支えたのは、オンラインの家族ではなく、見えないけれど、ありありと感じることができた家族だったのです。「愛する家」は、砂漠に一人いる彼に確実に寄り添い、ケアしていました。人との直接の相互作用によって形成されたつながりが、物理的な距離を超越して「生」に寄り添い得ることがここから読み取れます。
看護学のカリキュラムには実習科目が多くあります。臨地という、偶然性や不確実性に富む場に学生たちは実際に身を投じ、緊張し、戸惑いながら、その豊かさや危うさを実体験する中でこそ、「生」に「寄り添う」こと、相互性の妙、感性が涵養されていくのだということに改めて気づかされます。
次回は、AI(人工知能)によるケアの可能性について考えてみたいと思います。
参考文献
丸山 薫、1989、現代詩文庫 1036 丸山 薫、思潮社
サン=テグジュペリ、堀口大學訳、1955、人間の土地、新潮文庫